モノを書くということは簡単なことではありませんが、ある種慣れのようなことが身につけば、さほど難しいことではありません。
まずは日記からはじめてみましょう。日記は日々の記録ですが、そのなかで感動したこと、何か新しく発見したことを忘れないよう記録することが大切です。起承転結などの構成など考えず、まずはランダムでよいのです。その後、旅行の記録やエッセイを自分なりに書いてみましょう。そうして書くことを日常的な活動のなかに取り込むことができれば、あなたはいっぱしのモノ書きになれます。
原稿の書き方にも二通りあります。新聞と文芸です。
ぼくは旅のレポートをある大手新聞に毎月七年間連載した経験がありました。新聞記事は1行が12字詰めと、とても短いので、とにかく分かりやすく、明瞭に書くことを要求されます。4W1Hというか、When(いつ)、Where(どこで)、Who(誰が)、How(どうした)が基本です。連載当初「君の原稿はまだるっこい」と、デスク(副編集長)からバシバシ赤字を入れられ、大幅に削られました。
一方、文芸誌はその逆で、心象風景や風景描写は丹念に言葉をさがし、なかば言葉の芸(遊び)のような文体が好まれます。日本の文芸はほとんど私小説からはじまりました。 ですからたとえプロでも新聞記者は文芸を書けず、文芸作家は新聞記事を書くことは難しいということになります。
ぼくのスタートは雑誌でした。雑誌は新聞と文芸の中間のようなもので、簡潔でもなく、装飾的でもなく、文体としてはほどよい体温で読者に読ませるものです。 原稿表現はテレビなどと違い、映像がともないません。ですから食べ物について書くにしても「おいしい」だけでは読者に伝わらないのです。どのようにおいしいのか、何がおいしくさせるのか、を言葉で表現しなければいけません。女性に関しても同じで、ただ「きれいな人」ではダメなのです。そのあたりが初心者とプロの書き手の違いなのでしょう。
ぼくは紀行とノンフィクションの分野で書いてきました。どちらかというと新聞に近く、ぼくの本は中学生でも気軽に読めてしまいます。格調ある高尚な言葉使いや複雑な心理を深く洞察するような文芸的な才能は、残念ながらぼくにはありません。
大学時代、開高健に憧れました。いわゆる行動派作家です。開高さんはノンフィクションのなかに極めて深く鋭い文芸家の洞察を秘めています。今流でいえば「二刀流」でしょうね。極めて稀な才能の持主でした。ぼくは当初、開高さんに習い社会派ノンフィクションをめざしましたが、いつしか「辺境」「鉄道」に興味が移ってしまいました。「戦闘」より「銭湯」という傾向の軟弱さに、今は半ば呆れています。
少年時代からずっと野外活動派で、本来書斎派ではありません。鉄道に乗って旅に出たり、秘湯のひなびた湯に浸かったり、渓流でロッド(竿)を振るのが本望でした。
モノを書くことは一種の「人生表現」です。豊かな人生に悔いのないよう、ぜひ皆さんも「記録」を残しておいてください。