Profile & Biography

芦原伸(あしはら・しん)

1946(昭和21)年、三重県生まれ、名古屋育ち。本籍は京都府。北海道大学文学部露文科卒業。紀行作家、ノンフィクション作家。卒業後、週刊誌記者などを経て、1972(昭和47)年、鉄道ジャーナル社入社。『旅と鉄道』の創刊期デスクを務める。1979(昭和54)年、企画創作集団「グループ・ルパン」を設立。以降作家、編集者、経営者の三足の草鞋を履き続ける。2007(平成19)年、出版社・天夢人Temjinを設立、雑誌『旅と鉄道』、『SINRA』を復刊し、旅、歴史、鉄道にかかわる単行本を発行。パートワークの委託編集も手がける。

2019(平成31)年に退職。以後作家専業となる。現場主義(フィールドワーク)を基本として、取材、執筆活動に取り組み、国内はもとより、海外取材は70ヵ国を越える。朝日新聞夕刊「レジャーワイド」に7年間「旅」欄を連載。雑誌『旅』、『VACATION』、『SEVEN SEAS』などの旅行雑誌に執筆。日本文芸家協会会員、日本旅行作家協会副会長。「鉄旅オブ・ザ・イヤー」の最終審査委員長(2011~2024)を務める。

主な著作は『へるん先生の汽車旅行~小泉八雲、旅に暮らす』(集英社・第10開高健ノンフィクション賞最終候補作品)、『被災鉄道~復興への道』(講談社・第40回交通図書賞)、『北の星たち~新渡戸稲造、内村鑑三、有島武郎』(白水社・第5回加賀乙彦文学賞)など。


■ふるさとの記憶

 人は生まれた土地の土と風の匂いを背負ってゆくーー。

 誰の言葉かは忘れてしまいましたが、ぼくもこの言葉のごとく生まれた土地の匂いを生涯背負ってきた旅人です。
 ぼくが生まれたのは三重県多気郡荻原村(のち宮川村。現在は大台町)で、紀伊半島の中央に座する大台ケ原山東麓の里山で、過疎の村でした。親が戦前に名古屋から疎開したのです。その村にぼくは戦後生まれ、三歳まで育ちました。その後名古屋、札幌、東京と大都会に移り住み、本来は“町っ子”のはずでしたが、なぜか山岳や里山に魅かれ、旅を職業として今日に至っています。やはりぼくは辺境に呼ばれているのでしょう。

 信州や東北の秘湯を求め、渓流でフライフィッシングに挑み、北海道の道東のパイロットファームでは半年間、牧童をして働いたり、当時日本の最南端だった与論島ではサトウキビ刈りの援農をしてヒッピーたちと暮らしました。世界はこれまで70ヵ国を旅して、シルクロードをローマから奈良まで鉄道で辿ったり、東アフリカのケニア、タンザニア詣でを重ねたり、シベリアではソビエト社会主義の時代に過疎村にホームステイしたこともありしました。

 文明から遠ざかるほど、そこには異質な風物や人々の精神風土に触れ、改めて文明社会を見直すきっかけともなりました。果たして文明は人類を幸福にしたのだろうか、という大きな疑問が湧いてきたのです。

 辺境の旅は都会生活(文明)で曇った心の鏡を磨き直してくれます。
 文明社会は「快適」であり、「清潔」、「安全」です。しかし、人類が文明の力に頼り、楽になればなるほど、地球は病み、空気は汚れ、野生動物は消去されてきました。果たして、その行き着く先は何が待っているのでしょうか? 旧約聖書の物語では神(ヤハウェ)はノアの家族と一対の動物だけを救い、大洪水を起こし、人類と文明社会を消滅させました。人類は戦いをやめず、快楽に耽り、奢った暮らしに染まっていたからです。地球は人類だけのものではありません。現代社会の疫病(コロナ)、震災(地震や森林火災)、戦争は、ひょっとしたら天上の神からの警告かもしれません。このまま人間の勝手にしておけば、世界は全面核戦争となり、人類は滅ぶかもしれません。

 草木国土悉皆浄土ーーという天台本覚思想の言葉もあります。これは鎌倉時代に生まれた日本仏教の根本思想といえるもので、人間はもちろん、樹木や野の石にも霊は宿り、仏性がある、という考え方で、今でいえば生物多様化世界の尊重、とでもいうべき思想です。

 辺境には地球本来の物言わぬ風景があります。清冽な滝、幾星霜を生き抜いてきた原始の森、無言でたたずむ岩、そうした風景の中にたたずむとき、人は母の胎内のなかにいるように癒されます。

 辺境に佇み、もう一度文明社会を見直し、差別、偏見、戦争のない、穏やかで平和な世界をめざしたいものです。

生まれは三重、本籍は京都府、育ちは名古屋

疎開先の三重県の寒村で育つ
疎開先の三重県の寒村で育つ

 「どちらの出身ですか?」

 よく聞かれる質問である。
 この回答が苦労するのです。「にっぽんです」と答えるしかない。

 生まれたのは1946(昭和21)年、三重県多気郡宮川村で、伊勢湾にそそぐ宮川の源流、大台ケ原山の麓の村です。なぜ、ぼくがそこで生まれたか、というと先の戦争中、家族で疎開していたからです。

名古屋市立橘小学に入学
名古屋市立橘小学に入学

 戦争が終わり、ぼくが4歳の時に一家は名古屋へ引っ越しました。医者だった父親は名古屋の大須で耳鼻科・泌尿器科の医院を開業し、ぼくは松原幼児園、橘小学校、前津中学校、菊里高等学校と幼稚園から高校まで名古屋で暮らしました。そういう意味では故郷は名古屋かもしれません。ただし、育ったというだけで根付きの名古屋人ではなく、本籍はご先祖さまが累々と眠る京都府丹後国です。

 名古屋の大須は東京でいえば浅草のようなところで、観音様の門前町として開けた歓楽街でした。家から中学校に通う道筋には映画館が十数館建ち並んでいました。昭和三十年代のことで、まだテレビが家庭にない頃のことです。西部劇が人気で、大須の二番館、三番館でB級西部劇を毎週のように観ました。まるで「ニューシネマ イン パラダイス」の世界です。ぼくは映写技師と親しくなって、西部劇スターのブロマイドをもらい、それを“お宝”にしました。その経験が後々仕事になろうとは当時は夢にも思いませんでした。

西部劇をみて男を学んだ、「リオ・ブラボー」より
西部劇をみて男を学んだ、「リオ・ブラボー」より

大学時代を北海道、札幌で過ごした

 前津中学は名古屋の中心・栄町にあり、東京でいえば銀座で、松坂屋(デパート)の真ん前にありました。中学校の屋上からは当時流行の“トルコ風呂”が覗け、禿頭のオッサンが汗をたらしてスチーム風呂に入り、水着姿の女性のサービスを受けていました。ぼくらはそんな大人たちを眺めながら、密かにタバコを吸っていました。環境のせいにするわけではありませんが、小学校は優等生でしたが、中学校での成績はみるみる落ちてゆきました。

 高校時代は山に登ったり、ジャズを聴いたり、大人向きのハリウッド映画に熱中したり、デイトしたりして青春を謳歌。勉強はほとんど手につかず、大学受験に失敗しました。大学は当初、親のすすめで医学部をめざしており、浪人生活を京都で送りましたが、ところが予備校に通ううちに、ドストエフスキーを読み、文学に開眼し、志望を文系に変えました。そこで調べてみたら、北大に露文科があった。当時は五木寛之が新進作家で人気があり、ロシア文学はインテリゲンチャ(これもロシア語)の必読書で、ドストエフスキーやチェホフなどが人気作家だったのです。

“Boys, be ambitious!”の北大、ポプラ並木で
“Boys, be ambitious!”の北大、ポプラ並木で

 1966(昭和41年)のことで、北海道はまだまだ遠い国でした。青函連絡船に乗り、早春の津軽海峡を越えると、行く手に「白い大陸」が現れました。開拓者が未墾のフロンティアに向かうような、そんな勇気と不安を抱えながら、まだ見ぬ大陸へと渡ったのです。

 旅の虫に取り憑かれたのは、この時からかもしれません。

札幌での青春時代

北アルプス・白馬岳で
北アルプス・白馬岳で

 教養部時代はワンダーフォーゲル部に入り、雄大な北海道の山河をめぐり、一方では映画研究部にも顔をだし、ゴダールの物まねのような16ミリの劇場用記録映画(京都学生映画祭で入賞)も作りました。バイトをしていた札幌放送ではラジオ番組に抜擢され、DJ役で他大学の女子大生たちをゲストに招き、映画と音楽を語りました。この頃からぼくの鉄道旅がはじまりました。北海道のローカル線に乗りまくり、帰省の折には東北、信州の鉄道旅行を楽しみました。無銭旅行での釧路の牧場体験も忘れられません。朝から晩まで肉体労働で汗をかき、学問から離れて、貧しい酪農の体験をしました。放浪生活の真似事でしたが、今思うと、貴重な旅で、当時の北海道のおおらかな、清い時代を体験しました。

ローカル列車に乗って旅を続ける
ローカル列車に乗って旅を続ける

 ところが1968(昭和43)年から、東大、日大を皮切りに学園紛争がはじまると、北大へもその波はやってきました。折しもヴェトナム戦争の頃で、佐藤栄作政権は高度成長の再編成を行うべく、“産学協同”路線を打ち出しました。つまり大学は企業に奉仕すべき研究機関、ということです。当時大企業はヴェトナム特需で儲けており、大学に身をおくこと自体がアメリカのヴェトナム侵攻に加担するという危険を感じて、学生たちは「大学解体」を叫び、バリケード封鎖を行ないました。

 北の札幌にも学園紛争の嵐は吹き荒れました。4年生の時、大学は反代々木系の学生たちに封鎖され、授業はほとんどなくなりました。ぼくはノンセクトで、全共闘のシンパでしたが、闘争にはただただ野次馬的に参加していたに過ぎません。しかし、大学闘争は仲間たちの心を切り裂き、傷つけ、嘲り、友人たちは倒れてゆきました。この傷を負いながら、ぼくらは以後のそれぞれの道を歩んでいったのです。

東京は無職暮らしからはじまった

「旅と鉄道」編集デスクの頃
「旅と鉄道」編集デスクの頃

 卒業したはいいが、就職など考えていませんでした。企業に入ることが精神的なトラウマとなってしまったのです。ぼくら露文科の同期生7人は、大学院へ進むものを除いて、ひとりたりとて就職しなかった。それがぼくらの”流儀“だったのでしょう。

 東京へ出てきたものの、行く場所がなく、ぼくは牛乳配達と市場の肉屋にバイトを見つけ、日々肉体労働者として働きました。週刊誌の取材記者のバイトもこの時に、経験しました。その後、小さな出版社に就職しました。鉄道ジャーナル社で「旅と鉄道」の編集者募集があり、運良く採用してくれたのです。それまで趣味だった「旅」と「鉄道」が仕事になり、おまけに給料をくれるのだから、こんなラッキーなことはありません。鉄道ジャーナル社での仕事は戦場でしたが、ぼくの業界のスタートであり、修業の場所でもあったのです。

 4年間、「旅と鉄道」のデスク(副編集長)を勤め、キャリアを得て、フリーランスとなりました。「籠の中の鳥」は安全でしたが、やはり、籠の外を夢見て、自由な大空を飛びたくなったのです。昭和50年代はじめのことで、その頃出版界は景気よく、新刊や増刊号が増産されました。1979(昭和54)年、編集プロダクション「グループ・ルパン」を創設しました。一人では仕事がこなせなくなり、スタッフとの共同事務所を設けたのです。

 バブル景気とともにますます忙しくなり、「グループ・ルパン」を法人化し、スタッフも増えました。そうして30年間の間に、国内は隅々まで、海外は60カ国を取材で回りました。編集制作した雑誌やMOOKは数えきれません。しかし、その後IT革命が起こると、活字文化は衰退し、編集プロダクションは衰退しました。

 そこで天夢人Temjinを新たに立ち上げました。出版社を主務として、休刊となった良質な雑誌を復刊させようと思ったのです。いわば「雑誌復刊工場」です。そこで運良く「旅と鉄道」(朝日新聞出版発売)と「SINRA」(新潮社発売)を復刊したのです。

「SINRA」復刊。責任編集の玉村豊男さんと
「SINRA」復刊。責任編集の玉村豊男さんと

 自分が「ほとんどやるべきことはやった」という実感がありました。古希を迎えたところで天夢人を退職しました。今まで編集者、作家、経営者という三足の草鞋を履いて走ってきましたが、「もういいだろう」と作家だけに絞ることにしました。

 明治の男ではないですが、「坂の上に浮かぶ雲」をどこまでも追いかけてゆこう、という初心に立ち帰ったのです。というわけで、今後ともぜひ皆様方の応援をよろしくお願いいたします。